ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

どうしようもなさを生き延びる

わかっちゃいるけど やめられない。

植木等のスーダラ節の一節、
この一言を自分が思いつきたかった
と思うくらい、
自分自身の問題や、
自分と他者との折り合いのつかなさ、
社会とのうまくいかなさ、
ひいてはこの世界全体などという大きなもの
についての、
何か本質を突いた言葉だと思う。


自分が昔話を紙芝居にするということを
通して、
何か一貫したテーマのようなものを
意識して作っていたわけではなかった。


ただ漠然と、
この世界を描く、
この世界のデタラメさを描いて
何かこの世界の本質みたいなものに
少しでも触れてみたい。
そんな欲望はあった。
でもそれはどこかで聞いたような、
借り物のお題目でもあった。


自己解放、
自己表現、
結局は自分のためだけじゃないか、
という後ろめたさがあった。
だからこそ自分のためだけではない
何か大義名分がほしいという
気持ちがあった。
自分のためだけではない
意味や価値。
そんな後ろ盾がほしい。


ただ、結局それは理屈であって、
自分自身はそんなたいそうご立派な
人間ではない。
自分の興味関心があるものや
自分の問題意識に通じるもの、
自分に関係のあることに対してしか
力が湧いてこない。


いくら理屈でお題目を唱えようと、
自分がそれを欲望していないものには
思い入れられない。


理性と不合理、
頭と心、
そのうちの不合理や心が欲望をつかさどる。
結局のところ理性と頭だけでは
心を制御することはできない。


それがようやく
実感としてわかった。
それをまさに端的に言い表していたのが、
わかっちゃいるけど やめられない
だった。


いくら頭でわかっていても、
やめられないものがある。
それが人間だ。
そんな当たり前のことを実感として
納得できるようになるまで約40年を
要した。


この「やめられない」をどうするか。
「やめられない」ものをコントロール
しようとしてはうまくいかない。
その繰り返しの人生だった。
「やめられない」を全て制御したい、
制御できる、しなければならない。
この強迫観念こそが長年自分を苦しめていた
ものの一つであったと思う。


こうあらねばならない。
でも「やめられない」。
このギャップが苦しい。
でも「やめられない」は
やめようと思ったところでどうにもならないし、
どうしようもないものだ。
それを認識して、
多少は害が少なくなるよう工夫する
ぐらいしかない。


なんせわかっていても
やめられないのだから。


この「やめられない」もの。
人間の心、不合理、
どうしようもないもの、
どうにもならないもの、
それらをどう捉えたらいいのか。
これこそが自分の生涯のテーマだ。


そしてそれが本来、
自分が表現や創作を通して
クリエイトしていくべきものなのだと
いうことに気づいた。
すでに無意識のうちにそういうものを
作ってもいたが、
それがようやく言語化できたし、
何かまとまりのある一群として認識
できた。


昔話もそう、
紙芝居もそう、
妖怪もそう、
音楽もそう、
映画もそう、
笑いもそう、
文学もそう、
哲学もそう、
自分の、人間の、この世界の、
どうにもならなさ、
どうしようもなさ、
それとどう折り合いをつけていくのか。
わかっちゃいるけど やめられない中を
どう生き延びていくのか。


それを描きたい。
考えたい。
知りたい。


なんとも立ち向かいがいのある
壮大なテーマではないか。
それは最終的に、
老・病・死という究極の
どうにもらならなさに集約されていく
のだと思う。


父の病気、
妻の妊娠、
父の死、
祖母の老い、
息子の誕生、
こういったサイクルの中に自分は
生きている。
たまたま生かされている。


この世界のどうしようもなさの前では
自分はどうしようもなく無力だ。
だからこそ、
このどうしようもなさを前にして
いかに生き延びて死ぬのか。


それが自分の人生であり、
自分の表現であるのかもしれない。
と考えると合点がいった。