ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

わかっちゃいるけど やめられない

養老孟司の議論で、人間は自分自身をとてもひいきしている、
というのがある。


唾は自分の口の中にあるときは
汚いと思わないけれど、
ひとたび口の外に吐き出すと
汚いものだと認識する。
口の中だろうと外だろうと、
同じ唾だ。
でも一度吐き出した唾をまた口の中に
戻すのは心理的にかなり抵抗がある。
理屈ではない。
汚いものは汚いのだと。


人間は合理的なようでいて、
心はとても非合理だ。


ロジックでは
同じ唾だと理解していても、
口の中と外では大違い。
全くの別物だと思っている。


ここで重要だと思うのは、
理屈ではわかっているのに、
そうは思えないというところだ。


論理的に辻褄の合った考え方、
人間はそれらを理解できるが、
だからといってたちどころに納得したり
受け入れたりできるわけではない。


口の中の唾=口の外の唾
というイコールを頭では理解できたとしても、
実際の実感的なところでは
それはイコールではなく別物だと
認識している。


イコールだと言われても、
イコールだと思えないのだ。
話を飛躍させると、
これで差別の構造も説明できる。
例えば同じ人間だと言われても、
民族の違い、国籍の違い、性別の違い、
年齢の違い、その他諸々の属性の違い、
それがたとえちょっとした
取るに足りない違いであったとしても、
その違いを自分とそれらを分ける
大きな違いであると認識してしまう、
せざるを得ない心性というものが、
どうやら人間には程度の差こそあれ
実装されているようだ。


いくら理屈で説明でき、
その理屈が理屈として合理的に
成り立っているものだとしても、
その非合理な感覚を強くリアリティの
あるものとして実感している心の前では
無力である。


うんこを腸内に収まっているときと
外に出したときでは同じものだと思えないし、
肺がんのリスクを知っていてもタバコは吸うし、
酒も飲む。ドラッグもやる。
人に迷惑をかけてはいけないことは知っていても、人を殺す。
それが人間の非合理な一面でもある。


これらのことを考えたとき、
最近自分が関心を持っている
妖怪というものとも線でつながった。


科学や合理的なものの考え方が
広く浸透したこの現代でも、
まだ妖怪的なものはしぶとく
生き続けている。
むしろ人の心の闇によって
生み出される妖怪というものの
必要性は増しているともいえる。


非合理な人間の心。
その制御不能な心のとりあえずの
落ち着き先として妖怪があった。
これは先人から連なる無意識の知恵で
あったのかもしれないし、
それなくしてはどうしようもできない
人間のサガ、
談志のいうところの人間の業で
あるのかもしれない。


非合理、業、妖怪、、、
色んな表現の仕方はあるけれど、
それらはすべて、
このどうしようもない人間の心の一部
なのだ。


植木等の「スーダラ節」という
曲がある。
その歌詞にある、


わかっちゃいるけど やめられない


これこそまさに、
さっきからゴチャゴチャと述べているような
人間の本質を見事に一言で言い表している。


理屈ではわかっていても、
そうはできない。
それが人間だ。


じゃあどうすればいいのか。


あ、ソレ、
スイスイスーダラダッタ
スラスラスイスイスイ〜

 


たとえ意味などなくても、
とりあえず楽しくいきましょうと
いうことである。