ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

理性と妖怪のあいだ

小松和彦の妖怪本にハマっている。

前回の続きになるが、
自分が小松の妖怪論に惹かれたところは、
まだまだある。

妖怪は、
人の心が作り出したものである
ということだ。

人間の恐怖心や不安・弱さ、
そういったネガティブな心を
妖怪に象徴させ、折り合いをつけていた
というのである。

災害や天変地異などの理不尽な出来事を
妖怪のせいにする。
池に近づくなという子どもへの抑止を、
河童が出るぞとおどかし、妖怪を利用する。
嫁入りしたくなくて失踪した娘を、
神隠しにあったということにする。
などなど、様々な必要に迫られ、
妖怪は人間社会に引っ張り出されてきたのだという。

また近代化による科学信仰や、
論理的なものの考え方・価値観が
社会において支配的になってきたことで、
不合理な妖怪という存在が
淘汰されていったというのである。

ただ人の心は、
合理性やロジックで何事も決着できる
ような代物では当然ない。
よって現在でも、
都市伝説や学校の怪談など、
姿を変えて妖怪的なものは
必要とされ続けている。

自分は妖怪論の概要を
そのように理解したのだけれど、
自分にとってのターニングポイントになるような
気づきというのは、
「理性」という極めて合理的なものと、
「妖怪」という不合理なもの。
この対立要素が、実は対立すべきものではなく、
その両極のあいだで振り子のように
バランスを取ることで、
人間や社会はなんとかとち狂わないようにしようとやってきたのではないかということだ。

自分の最近の問題意識として、
論理的思考みたいなものだけでは
やはり突破できないものがあるな
というのを痛感していた。
理屈で理解できたとしても、心が動かない。
このようなことが多々あった。
じゃあ直感だけを頼りに行けるのかというと、
それも心もとない。
そのバランスをうまくとっていくしかないなぁ、
というのは理屈でわかっていた。
でもそれがなんだか実感としてピンと
きていないところがあった。

そこに、
「理性」と「妖怪」というキーワードが
スポンとうまく当てはまって、
なるほど!と腑に落ちた。

「理性」も「妖怪」も、
ともに必要なのだ。
ただ現代には「妖怪」が少なすぎる。

妖怪的なもの。
恐怖、不安、不合理、醜悪、脆弱、
嫉妬、怨恨、罪悪感、絶望、、、。
などなどを、理性的にではなく、
超自然的なものとして、
妖怪現象として受け入れる。
こういうやり方で昔の人々は、
ダイレクトにはとても受け止めきれないような
人間の負の心持ちを、
なんとか乗り越えてきたのである。

もちろん、
だから「妖怪」さえあればそれでいい、
というものではなく、
自分のこのようなものの捉え方自体が
「理性」によってなされているわけで、
「理性」や「妖怪」のどちらか一方にのみ
偏ることが、とくに現在においては
「理性」に偏ることで、
心がとてもしんどくなっている社会、
その社会を生きる人々、
その一員である自分、
というがパァーっと自分の中で、
一つの見取り図としてクリアに
広がったのだ。

求められるのは「理性」過多。
だからこそ溢れ出る制御不能の欲望と感情。
明らかに「妖怪」を必要としている。

陰謀論、ネットの誹謗中傷、鬱、
これらは現代の妖怪的なものの代表格だと
思う。
かつてなら、
こういうものこそ妖怪の姿への置き換えが
必要とされたものだろう。

「理性」と「妖怪」というものは、
「自己責任」と「免責」という要素を
同時に背負わされている。

理性的に考えられる個人は
自分の責任はすべて自分で負う。
なぜならその個人のありようは、
すべてその個人による理性的な判断のもとで
行われたことだからだ。

個人への過剰な責任追求。
妖怪的なものが失われた結果、
これが基本的な共通前提になってしまった。
それじゃあしんどいハズだ。

たかだか妖怪本だと思って
読みはじめたものが、
自分が表現活動の中心に添えている
昔話と関連していることを知り、
むしろ昔話を考える上での新たな視点をも
与えてくれ、
しかも直近に読んでいた
國分功一郎と熊谷晋一郎の
中動態と当事者研究にもダイレクトに
結びつき、
自分が考えていたことに
さらに太い輪郭を与えてくれた。

すべてがつながったという感覚が
あったので、
とりあえずはまず文字にして残さなければ
という必要を強く感じてこの文章を
書いた。

果たして「理性」と「妖怪」の配分を
意識的にコントロールすることは
できるのだろうか。
またそれによって何かいい方向に
進むのだろうか。
それはこれから身をもって実践していくしか
なさそうだ。