ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

考える・感じる・思う

自分は暇さえあれば本を読む。
ラジオやポッドキャスト
YouTubeなどで、
人が何かについて考えたことを話している音源を聞く。


自分にはまだまだ知らないことがたくさんあり、
自分一人では到底辿り着けないような何かが
あると思うからだ。


読み、聞いたものから知識や知見を得て、
それによって自分のものの考え方や、
大げさに言うと、生き方をチューニングして
よりいい感じに生きられるように
なりたいと思う。


昔にくらべ知識は増え、
自分の中に色んなパターンの引き出しが
増えたことは確かだ。
ただ一方で、知識の収集は、
結局自分は人の考えたことをそのまま
受け入れているに過ぎないという
認識も強くなる。


自分が知り得ないことを知るだけでなく、
そこから得られた仮説や結論に至るまで、
すべてアウトソーシングしている。
そんなことをいくら続けたところで、
自分自身は何も変わっていないというのが、
実際のところだ。


知識はただの情報だ。
それをどう解釈するかという文脈まで
アウトソーシングしてしまっては、
そこに自分がいないのと同じに
なってしまう。


自分は考えるのがあまり得意ではない。


考えるというのは、
言葉で、理屈で思考するということだ。


ものの捉え方には、
考える以外に、
感じる、
思う、
というのがあると思う。


感じるは、快・不快、好き・嫌い、いい・よくないなど、感覚的なもの、直感によって、
外部からの刺激によって
自分の中に生じたものが何なのかを
感じることだ。


思うというのは、
感じると似ているようでちょっと違う。
自分が何かを強く思ってしまう、
たとえば我が子が可愛くて仕方がない、
というような湧き上がる強い思い入れ。
一般的に思いやりと言われるものと
同じなのかもしれないけど、
自分は思い入れと言ったほうがしっくり
くる。
ぼんやりと思うのは、ここで言うのとは
また別の思うだ。


感じるは自分の中に生じた感覚に
フォーカスすることだけれど、
思うは自分が何らかの対象に強く
思い入れることで、フォーカスは
その対象に当たっている。


同じ外部との関わりの中で生じる
感じると思うであるけれど、
フォーカスが向く先に内と外の
違いがある。


もちろん、自分に対して思う、
ということもあるかもしれない。
というか、今まで自分にそこまで
思い入れたことがあっただろうか。
自分が人からどう思われるかとか
自分はどうあるべきかとか、
あるべき姿ではないのでもう少しそれに
近づかねばならないとか、
そういうふうな自意識やコントロールの対象として自分を考えたことはあっただろうけど、
自分自身にただ強く思い入れたことは、
実はないのかもしれない。


別にわざわざ強く思い入れずとも、
多少は思い入れる必要もあるだろうと思う。
おそらく、自分への思い入れが無さすぎて、
外部からのインプットに重きを置く
という背景もあったのかもしれない。


どちらにせよ、
考えるのが苦手である以上、
考えるのはそこそこにして、
やはり自分の足場は、
感じると思うにあると捉えるのが
適当ではないかと。


自然科学的には事実は一つだろうが、
(それもあくまで概念としては)
人間の特性や感じ方は千差万別、
人それぞれなのだ。


自分がものを捉えるときは
考える、感じる、思う、
を働かせて行われる。
考えるは言葉や理屈という
物事を認識・理解するための
便宜的な道具を介するため、
間接的でとりあえずの認識となる。
しかも理屈の扱いにはセンスが問われる。
(自分にはこのセンスに偏りがある、というか微妙だ)
一方で感じると思うはダイレクトな
ものだ。
感じる、思うを一次情報として、
考えるはその一次情報に解釈を与えるものとして、そうやって自分の中でそれらが機能して導き出されたものを、自分は自分であると思っているのかもしれない。