ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

外部との渡り廊下

自分には表現・創作への欲求がずっとある。
それはとくにフィクションに向けられる。
何かお話がつくりたい。
そういうものにエネルギーを注ぎたい
という自分がいる。


それは一体何なんだろうか。
あらためて考えてみる。


なぜそこまでフィクションに引き寄せられるのか。
フィクションじゃないといけないのか。
いや、フィクションじゃなくても、
ドキュメンタリーでもそこで繰り広げられる
人間模様には引きつけられる。
どうやら、自分はフィクションに限らず
お話、物語に惹かれるみたいだ。


子どものころからそうだ。
小学1年のときにたしかテレビで世にも奇妙な物語の放送が始まって、
いつも夢中になって見ていた。
テレビアニメやマンガも見ていた。
中学になると友達から「GONIN」や北野映画を教えられ、それまでとは世界の見え方が全く変わってしまった。


自分にはずっと物語を欲し、
影響を受け続けてきた経緯、
大げさに言えば歴史がある。


おもしろいから。
自分が経験できないことを疑似体験できる。
世界が広がるような楽しさ。


物語からの恩恵は色々あると思うが、
自分に限らず、
大昔から、神話や伝説、昔話、
説話、伝記、芝居などなど、
物語を語って伝えるという行為は
衣食住など直接命に関わるわけでは
ないけれど、
人間がずっとやってきたことだ。


人は物語を必要としている。
サピエンス全史を引き合いに出すまでもなく、
やはり人は根本的に物語への欲求が
実装されているのだと思う。


人とか人間とか言うと
あまりに主語が大きすぎるので、
もう一度自分に引き寄せて考える。
自分が物語を求める動機づけや、
物語から何を受け取っているのかを
考えると、
それは、自分というものから離れるという
効用が大きいように思う。


自分は自分の人生しか生きられない。
あくまで自分の手の届く範囲の世界を
自分の視点からしか捉えることができない。
しかもそんな自分がまだまだ未熟で
経験値もオツムも足りていない。
だからこの世界を生きるにはあまりに
心もとない。頼りない。
だから勉強して知識や情報、技術を
得るのだけど、それでもまだまだ足りない。
やはり自分は自分の殻の中でしか
生きていない。
でも自分である以上、自分から離れることは
できない。
そんな閉塞感がある。


自分は外とつながりたいと思っている。
それが生きていく上で必要らしいことも知っている。
家族や友達の外にもまだ世界は広がっているらしい。
もっと知りたい。
もっと自分の中に外から風を吹かせたい。


そうだ、
自分にとって物語に触れることは、
外部との渡り廊下みたいなものなんだ。
自分と外の世界をつなぐ通路。
外からスーッと風が吹き、
自分にまた新たな感性を育ませてくれる。
普段自分に閉じこもっているその場所の
風通しをよくして、
自分の世界を押し広げてくれる。


自分 対 世界 という
認識で普段対峙している他や外が
少しだけ近い存在になったような感覚。
そんなものを積み重ねていく必要が
自分には切実にある。


自分をより広げてくれるような
物語に出会ったとき、
それは体験したわけでもないのに
どこか実感を伴った感覚として
自分の中に残る。
そういう感覚の一つ一つが自分を
つくっていくのだろうということは
わかる。
だから自分は物語をこんなにも欲し、
またそれをつくることでまた新たな
実感を得たいと思っているのかもしれない。


人は物語を欲する。
需要があれば供給をというように、
いまや商売と結びついた物語で
世の中溢れかえっている。
マーケティング戦略としてストーリーを
売りましょうというのがもはや
常識になってさえいる。
ドラマ、マンガ、映画、動画配信サービス、
ネットニュース、
フィクションを伴わない商品に至るまで、
世の中は物語の包囲網の中にある。


人は物語を欲しているとはいえ、
あきらかに過剰供給、
物語過多だ。


自分に閉じこもらずには生きられないため、
そこに外とつながるための渡り廊下として
物語があったはずが、
もはや閉じこもる自己すらないぐらいに
外や他の物語が自分を侵食してきている。


いま必要なのは、
物語を浴びるように受け取ることでは
なくて、
ひとまず物語を適当な量に制限したり、
受け取るべき物語を選り分ける嗅覚を身につけたり、
そもそもの閉じこもり先である
自分のリアルな経験や体験を、
まずは存分に味わってみることじゃ
ないのだろうかと思う。


その中で、
外部の物語にも触れ、
自分の中に適度な風通しを維持しながら、
こんな自分であるしかない自分の生を
それなりに生きていくしかない。
のかな。