ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

いかんせん

いかんせん昔話を始めとする、
神話・古典文化の研究本を読みすぎた。

その結果として、
昔話を学術的な視点でのみ捉えるように
なってしまっていたところが
否めない。

初心を思えば、
そもそも自分は自己解放としての
表現や創作というものがベースにあり、
その具体的表現ジャンルとしての
紙芝居や昔話だった。

しかしそれを調べたり
勉強すればするほど、
そこで述べられているアカデミックな
態度に自分が絡めとられていた。
縛られていた。

研究は、
その研究対象を、
「こうである」と規定することだ。
でもそれは絶対的なものではなくて、
あくまでも、
こういう捉え方をしましょうという
暫定的な概念だ。
そしてその暫定的なものを
とりあえず研究対象の定義として
そこから具体的に分類とか類推とか
して考えてみると
整理しやすいんじゃないですか。
と、まぁそういうものだ。

だからそれにはそのようなものとして
応じるのがいいのだろうけど、
自分はわりと素直に間に受けやすく、
とくに権威然として
これが正しいですよと言ってくるものに
従順であるという恥ずかしい面もあり、
わりとそれらの研究本に書かれてあること
すべてを、
これが正しいんだぁ、
と鵜呑みにしてしまった。

そのおかげで、
昔話とはかくあるべしという
研究者が打ち出した理論に縛られて
なんとなく窮屈な感じになってきた
のである。

影響を受けやすく
生真面目であるという性格が
自己解放とは真逆の抑圧を
作り出してしまった。
このようなことは自分あるある
ではあるが、
今回はわりと早めに気づけたことを
よしとしたい。

最初に研究本を読みすぎたと書いたが、
もっと昔話の奥を知りたいという好奇心や
本にあたって調べていくという行為自体が
悪いわけではない。
あくまでもそれらと付き合う自分の
態度の問題だ。


インプットは、
知識によるものと
経験によるものがある。

知識は誰かが言っていることや
決めたことである場合が多い。
対して経験は自分の現実生活で味わい、
実感を伴うものだ。
同じインプットでも自分が関係するものと
そうでないものがあり、
研究本による知識、
それも他者が作り出した概念という
自分と遠いものにのみ
自分の創作の根拠を依存するというのは
さすがに違う。

大事なのは
昔話に触れたときの自分の実感。
そのお話を読んだときに
自分がどう感じて、
何をそこから得たり考えたり、
空想・妄想の扉が開いていったのか、
ということだ。

お話よりも
研究本ばかり熱心にあたっても、
自分の心が躍ることはない。
バカを自覚しているので
勉強しようという姿勢は
よいにしても、
それをただ間に受けて
かえって自分の身動きを縛ってしまうのは
もったいない。

先人の遺した偉大な功績には
敬意を払いつつ、
同時に自分のクリエイションや
わがままも満たしてやる。
このバランスを取りながら
動いていくしかないでしょう。