ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

自分の立場を明らかにし、その都度更新

この前のブログで、
自分の立場を一つに限定しないことで
バランスを取るのが自分にとっては
今のところいちばんよいのではないか
ということを書いた。


それは自分の中で振り子のように
揺れ動く異なる考えや感情を
いずれも自分のものであり
同時に存在してよいと認めることで
自分自身の多様性を受け入れると
いうことだ。


否定という作業がないので
精神衛生上かなり楽である
ということは言える。


ただ一方で、
相反するものを常に共存させるということは
判断基準が定められなかったり、
方向性を決められないという副作用もある。
一つに決めないということは、
決断を迫られたときに困る。


自分の中にいくつかの視点の考えや感情が
あるにせよ、
すべてをただ流れにまかせるわけにもいかないので、
何かを決断したり、
それによって行動するという場面も
人生の中には幾度となく出てくるし、
何より、自分自身あまりに拠り所がないと
ふらふらしてしまう。


ふらふらしたり、
まわり道することで見える景色は
たしかにあると思うけれど、
自分自身が何者であるかという
ざっくりとした立場ぐらいは
暫定的にであれ定めたほうがよいのでは
ないかとも思うようになっている。


自分の中のアンビバレントなものに
目をつぶるというのではなく、
自分の中にアンビバレントなものは
あるけれども、
それでも自分はとりあえずは
この方向でいきたいと今は考えている、
というところまでは限定して
よいのではないか。


その道中で、
自分の中のアンビバレントなもの同士の振り子運動を行ったり来たりしながら、
自分の立場をその都度チューニングしていく。


対自分に対しても、
対人関係の中でもそのような意思表明が
必要なんじゃないかと思う。


人に対して、
自分はとくに自分の立場や
自分の中のアンビバレントな感情と
いったことをあまり説明したことがない。
まず自分自身そこまで自分の有りようを
自覚してこなかったということもある。


わりと感覚的に、抽象的に、
雰囲気でなんとなく行くというのが
自分のよくあるパターンだった。
人に対しては多くを語らず、察して頂戴ね
というスタンスだったように思う。


それが人からすれば
当然のように何を考えているのかわからないと
いうふうに見られるし、
自分自身でも自分の曖昧な立場に
拠り所のない不安定さを感じていたことも
たしかだ。


このあたりの自分の癖が
かつてやっていたバンドを崩壊へと
導いた一つの要因であったと思う。
自分もかなり傷を負ったし、
メンバーもこちらのことが理解できず
混乱したり憤ったりしたかもしれない。


だから
人には自分の考えや感情を
曖昧さも含めてある程度表明しておいた
ほうがよいと今では思う。


そこで人にわかりやすく伝えるために、
自分自身でも違和感を感じるような
あるステレオタイプな一つの立場に集約させるのは、やはり違うと思う。
そうではなくて、
自分はこんなことを考えたり、
一方で相反するようなこんなことを思ったりもするが、
その中で自分が今のところいちばん
腹落ちするのはこのような態度や立場である
ということを馬鹿正直に表明すること。
しかもそれが今後はいかようにも変わる可能性があることも、場合によっては伝える必要もあるかもしれない。


あまりにもとっ散らかりすぎると
それこそ人を混乱させるだけになるので
伝え方には配慮が必要ではあるけれど、
自分の中での右往左往や堂々巡りの過程も含め、
それを経て今の暫定的な方向性にたどり着いたことは、
伝えたほうがより相手も納得しやすいだろうと
思う。


人に対してだけでなく、
自分に対してもここまで
馬鹿丁寧な自己理解のための思索が
必要なのだと思う。


というのが、
前回のブログからさらに
考えたことだ。