ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

一つにしない

何事も本筋は一つでないといけない、一つに絞りたいという強迫観念というか、
欲求のようなものがある。


一方で実際は、
思いや感情など一様ではなく、
無理矢理一つに集約してみても、
なんとなく違和感が残る。
ということがある。


自分のことで言うと、
昔話の紙芝居を作るというのは
自分の自己解放したいという欲求、
自己解放したら気持ちがいいという快楽を
表現や創作という手段に乗っけて
実現するというものが根本にある。


ただ実際に昔話の本を集めて
色んな話に触れたり、
昔話の研究・解説書を読み進めると、
昔話の背景や奥深さ、
そして昔話が長きにわたり伝えられてきた
文化としての大切さも知ることになる。


自己解放や表現の手段として、
昔話という枠組みを借り、
自由に、
好き勝手に、
あるときは大幅に改ざんもしながら
自分なりにお話を再構築していく。
解説書に書かれるような、
そのお話のキモとされる部分も
容赦なく切り落としてアレンジすることもある。


そこで自分は、
自己解放のための創作という文脈と、
昔話をみだりにかえてはいけないという昔話研究者側の文脈の間に引き裂かれることになる。


これに対して、
一つのクリアな結論を出そうとすると、
どちらか一方の考え方を採用すると
いうことになる。


あくまでも自己解放として、
個人的なものとしてやっているんだから、
好きにやっていいのだ、
というロジック。
昔話はその構造こそが本質なので、
それをいじってしまったらそれはもやは
昔話ではない、
だからその文脈に則って忠実に再現する
べきであるというロジック。


どちらを選ぶのか。
ということになるけれど、
でも、どちらを選んだとしても
違和感が残ってしまう。


自己解放である面も残しておきたいし、
昔話の背景を知ってしまった以上、
それをフル無視するのも気持ちが悪い。


双方がキレイに両立することを
目指すという手もあるのかもしれないと
都合のいいことを思ってもみるが、
実際そんなことはできない。
必ずどこかに衝突が起こる。


ではどうしようか。
自分がいちばん納得しやすい落としどころを
探ってみると、
境界をアバウトにすることだった。
無意識のバランス感覚に任せて
とりあえず作ってみる。


お話によって、
自分のアイデアをどうしても実現したいときもあれば、
元の話をできるだけあまり変えずに
表現したいときもある。
ケースバイケースでその時々の
バランスでやりくりするという
なんの新鮮味もない着地点。


ただその着地も暫定的なもので、
今後変わっていくこともあるかもしれない。
自分のことだから、たぶん変わるだろう。
それに昔話というもの自体が、
唯一の原典を有しないという性質をもっていて
現在なされている研究や解釈も暫定的なものであるかもしれない。
また口承で伝えるという昔話のスタイル自体が
途中で変化することを必然的に宿命づけられているものでもあるし、
全く変えずに伝えるのがよいのだというのは
あくまでも昔話研究者の立場からの意見だ。
という諸々の異なる事情があるので、
それに対して、
自分はどうするのかということを
自分でその都度自問自答しながら
必要に応じてチューニングしていくしか
ないというのが現時点での自分の
立場である。


このスッキリしなさを
神経質に一つに絞ろうとしないという態度が
自分には今のところ一番よいと
思われるスタンスだ。