ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

キャラ

キャラを演じるという
言い方がある。
ありのまま、本音で生きることが
一般的には良しとされているように
思うけれど、
僕は基本的に対人関係の中で
素直に本心だけを述べる
ということはない。
相手や場に合わせながらその都度
自分を変えていく。

おそらく幼いころから
それが自己防衛的処世術として自然に
身についたのだと思う。
気づいたら空気を読むという能力が
自分の中に実装されていた。
子どものころは自分が弱者であり
未熟であることを知っていて、
一方で他者や社会はなんだかよくわからない
得体の知れないものなので、
そんなハードな世界で
ちっぽけな自分が生き延びるためには
それが必要だったのだと思う。

そういう昔からの背景があるので
人前で自己主張しないというのは
今でもあまり変わっていない。
気を許した相手にのみ、
とくに1対1の場面でポロっと本音が
出ることがあるくらいだ。

だからその結果として、
孤独や抑圧とは常にお友達で、
ひとりっ子気質も相まって
高校1年のときにはクラスにほとんど
友達がいないという状況もあった。
ただ表面的には大人しくしている一方で、
内面での自意識は多弁かつエネルギッシュ、
そういう反動が表現・創作というところに
出口を求めたのだろうと思う。

その一方で、
仲の良い友達の前でのみは
ファニーな一面を見せていて、
友達からはそれなりに面白い奴だと
思われていた。


友達や仲間の前では
自分は自分のありたいキャラクターで
いられたような気がする。
おもしろい中ちゃんとか、
おもしろいジョニイというキャラ。


無意識ではあったけれど、
卵が先か鶏が先かみたいな話で、
キャラが先か、
おもしろい振る舞いが先かは
もうわからないが、
おもしろいというキャラを
自分でなぞっていくことで 
結果的にそれが内面化されていったように思う。


やはり最初はエイヤっと
演じるような覚悟と勢いがあった気がする。
オレはおもしろい人間でありたいんだ
という切実な何かに突き動かされていた。
だからキャラという鎧に助けられた
ところがかなりある。


キャラが定着したところで、
ようやく安心して物が言えるようになる。
今思うと、そんなプロセスを経ていた
ように思う。


バンドでライブをしていたときも、
完全にキャラを演じていたけれど、
それによって日常では出ないような大きな声で
ベラベラと無駄口を叩くことができた。
当然空気は読むのだけれど、
普段とは違って、無茶も簡単に言えた。
本音を言うというのともまた違う、
ただ笑い欲しさに適当なことを言ったり
やったりしている中に、
自分のエネルギーを吐き出せた感じがあって、
それがとても解放的で、
なんなら全能感すら感じていた。


僕は嘘を通してしか、
安心して自己解放できない人間なんだなぁとつくづく実感したし、
だからこそ自分にはフィクションが、
表現が、創作が必要なのだろうと思う。
やはりそここそが自分が生き延びるための
居場所なんだろう。


全くろくなものではないけれど、
そうなのだから仕方がない。
もしこの先自分が創作を必要としなくなったとしたら、
おそらくそこが人格的なゴールだ。
結局は個人的なアイデンティティの問題なのだ。
ずっとクライシスが続いている。


本当にろくなもんじゃない。
だからやるんだよ。