ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

昔話と今

マックス・リュティの
「ヨーロッパの昔話 その形と本質」を
読み進めているけれど、
無類に面白い。
よくここまで昔話の特徴を読み取って
体系化できるものだなぁと本当に感心するし、
すごい考察だと思う。

ただ一方で、
その体系に当てはまらないものは
それが昔話として記録されているものでも
「これは昔話の様式から外れている」と
いった感じで邪道扱いしているのも面白い。

体系化はそのジャンルの条件を規定し、
規定以外の例外は基本的に認めないことで
体系たり得るというのがあるので、
そうならざるを得ないのだろうけど。
というわけで、
体系化にも一長一短あるけれど、
その一長の部分がすごく芯をくっているというか、膝を打つ感じがある。

「へぇー」とか「なるほど」と言いたくなる
考察のオンパレードだ。
昔話の輪郭をここまでクリアにしてくれて
納得感のあるものは初めてかもしれない。

この本によって、
昔話の様式の大枠はつかめるんじゃないか
と思う。
その体系に当てはまらない例外については
自分なりに考えたり、
他の研究ではどのように捉えられているのか
調べたい。

そして読み進めていく中で、
どうしても頭に浮かぶのは、
そのような特有の様式をもつ昔話は
聴き手に何をもたらすためのものなんだろうということだ。

昔話の特徴である「抽象性」。
図形的な登場人物、一次元性、孤立性など
昔話は昔話固有の要素群によって成り立っているという。
それは納得がいく。

その特徴は非現実的・非合理的なものであり、
本にも書いてあったが、
現代の聴き手や読み手にとっては
非常に飲み込みにくい・受け入れにくい
表現様式でもある。
リアリティ・ディテール・登場人物の内面、
昔話にはいずれもない。

昔話はそのような現実とかけ離れた
表現様式によって何を伝えようと
しているのか。
聴き手は何を受け取れるのか。

昔話にとって、
それは最大の問題だろうと思う。
かつてそれはどんなものとして受け取られていたのか。
そして時代を経た今、
現代の人間がかつてのように昔話を享受できるのか。

まがりなりにも昔話に足を突っ込んだ自分に
とって、
それは大きな問いだ。


そこで、
自分なりにある仮説を立ててみた。

昔話はなぜそんな表現様式なのか。
昔話は何を伝えようとしているのか。
「現実」ではなく「本質」を
抽象的な方法で描くことによって
伝わるものとは何なのか。

それをすごく簡単な言い方で表現すると、
考えて理解させるのではなく、
感じさせるためではないだろうか。

理屈で理性に訴えるのではなく、
非合理的な手法で心に訴える。
そのためにこの様式が必要だったのでは
ないだろうか。
子どもが主な対象であることも
こう考えると合点がいく。
まだ合理性や理性が未発達な子どもに対して、
考えさせるのではなく
感じさせることでこの世界を伝える。

昔話の非現実的・非合理的な世界観を
合理性で理解しようと無駄だ。
そして合理性で伝えられないものを
合理的ではない人間の感性や心に
理屈を飛び越して伝えられるという
アクロバティック性こそ昔話の本領なのではないだろうか。

昔話でしか伝えられないもの
感じさせることができないものがある。
昔の人はそれを実感していたからこそ
代々語り継いできたのではないだろうか。
合理でないものの大切さ。
それは人がキツネにだまされなくなったという話からもわかるように、
昔はあって、今はなくなってしまったものだ。

だから現代では
昔話は親しまれない。
大人が昔話に価値を感じていないからだ。
意味のないもの、合理的でないものは忌避される。
効率優先。
ガバナンス。
コンプライアンス
こういった社会的・経済的指標は、
消費者マインドが骨の髄まで染みついた
僕たち個人がすでに
価値観として内面化しまっているものだ。

伏線回収という言葉が
最近よく使われるが、
要は辻褄合わせだ。
辻褄の合わないものはおかしいもの、
間違っているもの、稚拙なもの、
つまらないものとするのが今だ。

そりゃ昔話の居場所がなくなるはずだ。

となるとだ。
現代で昔話を語るというのは
ものすごくハードルの高い
ということがあたらめてわかってしまう。

昔話の面白さをどうやって
今に伝えられるのか。

ハードルは高いけど、
全く光明が見えないわけじゃない。 


それは、
今の世の中を覆う閉塞感が、
現代的な合理性の成れの果てであり、
そのモヤモヤ鬱々としたものからの
脱却として、昔話の非合理性が
活きてくる可能性がある。


もっというと、
昔話の非合理性が現代的な合理性の
行き詰まりを突破する何かに
なるかもしれないということだ。
それも具体的ではなく、
抽象的な世界観によって。


昔話から道徳観念や教訓を得るというのは、
現代的合理的な受け取り方だ。
そうではなくて、
その合理的ではないし現実的ではない
世界観をまるごとなんとなく受け止めることで
フッと軽くなるような感じ、
そして世界の捉え方がなんとなく
今までとは変わっていく、
本来の昔話の楽しみ方をあらためて
今できるようになることが、
また昔とは違った現代だからこその救いにも
なるかもしれない。


とまあ、
理屈っぽく書いてはきたけれど、
理屈ではなく、
昔話に身を委ねるようにして
楽しむのがいいというのが
ざっくりした方向性だ。


面白いし、
やる意義も感じる。
それをまじめ腐らず軽やかに
やっていきたい。