ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

抽象性と具体性

昨日のブログに書いた
昔話の「抽象性」について
もう少し考え直してみる。

口承昔話は現在では
ほとんど途絶えており、
自分が紙芝居と称して作る昔話動画は
絵や編集を介したもので
口承とは全く違った表現形態であるため、
口承昔話が持っている特徴を
そのまま受け継ぐことはできない。

口承昔話の大きな特徴である「抽象性」は
口承という様式であったからこそ、
またそれが口承によって庶民の間に
語り継がれたものであること、
子どもを対象にしたものであること
(正確には子どもだけではないが)
などから、
必然的に生まれた様式なのではないかと
僕は思っている。

だから同じ昔話を語るにしても、
口承という様式や、
口伝え、対象を誰にするかなどの
前提条件が変わってしまえば、
自ずとその表現形態も変わってしまうし、
そうらならざるを得ないし、
それが自然だろうというのが、
僕の考えだ。

口伝えから、
文、絵、動画など
より具体性の高いものに形態が移行すると、
口承昔話の「抽象性」が「具体的」な
ものに置き換えられてしまうことは
避けられない。

だから僕は
「抽象」から「具体」へ、
というわかりやすい図式を
示したのだけど、
その言葉だけ見ると、
ちょっと自分の言いたいことからは
外れてしまっているなと感じたので、
もう少し丁寧に言葉にしてみたい。


昔話の大きな特徴である「抽象性」。
これが昔話の本質でもあり、
昔話特有の味わいを生み出す
ものでもある。
口承によって担保されていた「抽象性」は、
文章や絵など具体的なものに落とし込むことで
ある程度失われてしまう。

たとえば、
おじいさんとかおばあさん、犬、猿など
記号的に表されていた登場人物が
絵によって表現されると、
どんな姿形かという具体性をもってしまう。
「昔々、あるところに」という漠然としたものも、絵にされた途端に、
どんな風景のどんな場所なのか限定されてしまう。

こんなふうに、
口承から他の表現形態に移ることで、
抽象的だったものが具体的になる。
それは表現形態の特性の違いなので
必然的であり、避けられないことだ。

だから、
口承ではない表現形態を用いて
昔話を語るならば、
その表現形態に依存した語り方・あり方に
ならざるを得ない。
自分は紙芝居や動画といった表現形態を
用いるので、
その表現形態に合った表現方法を模索して
いくべきだと思っている。

ただ、
ここからが昨日書けなかったことだけれど、
ただ「抽象」から「具体」に置き換えられば
いいというものではなくて、
昔話の肝はやはり「抽象性」だ。
新たな表現形態の中でも、
確保できる「抽象性」があるはずだ。

「抽象」と「具体」の塩梅を、
新たな表現形態の中で、
どのあたりでバランスを取るのか、
折り合わせるのかというのが、
課題であり、
新たな表現形態の特徴となってくる。

新たな表現形態とまどろっこしい言い方が
面倒くさいので、
ここでは仮に「ネオ昔話」としておく。
「口承昔話」と「ネオ昔話」は、
同じお話をベースにしながらも、
その表現形態が異なることで、
全く異なる特徴をもった表現にならざるを
得ないという宿命を背負っている。
しかもそれはただ違うだけでなく、
同じであるのに違うというアンビバレントなものだ。

口承昔話という形態が途絶えた今、
昔話は今後、桃太郎や浦島太郎など
特定のお話のみが形骸化しながら残っていき、
他のものは時代とともに忘れ去られていくだろう。
というのが僕の見方だ。

僕はたまたま昔話に触れた。
そしてその面白さを知った。
それがちょうど自分が表現形態を模索していた
時期とたまたま重なったことにより、
自分の得意な動画編集や拙い絵を用いて
昔話のお話を自分なりに形にしようと思いたった。

かつての「口承昔話」を再現することは
今の時代にはできないだろうし、
それをやりたいとは思わない。
「ネオ昔話」なる邪道なやり方で
昔話の形を借りて、何かを作り、外に出していくという行為を続けていきたいというのが、
今の自分が向かいたいところだ。

守る、変えるという相反するものの塩梅。
このさじ加減は個人的な楽しみでしかない。
自己満足だ。
ただこれを自己満足だけにとどまらない何かに
飛躍させたいという野望もある。

無意識のうちではあったけれど、
今まで作った昔話の紙芝居は、
その微妙な塩梅がなかなかに
面白いことになっているとは思う。
これからは今書いたようなことに意識的でありながら、でも直感にも身を委ねつつ、
「口承昔話」以降の
「ネオ昔話」の語り手の一人として、
昔話の新たな姿形をたくさん
世に出していきたいと思う。