ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

昔話 その形と本質

マックス・リュティという昔話研究者の
「ヨーロッパの昔話 その形と本質」
という本を読んでいる。

ヨーロッパの昔話を題材にしているけれど、
日本の昔話とも共通する部分が多く、
昔話全般についてあてはまる話なんじゃないか
と感じながら読んでいる。

昔話の様式原理は「抽象性」だとし、
昔話は道徳観念や正義を描くものではなく、
平面的、図形的、孤立的な様式によって、
世界の「事実性」ではなく、
「本質性」を描いているという。

めちゃめちゃ大雑把にまとめてしまったけれど、
この本は読んでいて「なるほど」と思うようなところばかりだ。

個々の昔話についての
テーマ性を掘り下げるのも面白いが、
昔話そのものが共通してもっている特徴な様式について考えるのも面白い。

昔話の特徴である「抽象性」こそが、
昔話と他のフィクションとの決定的な違いでもあるし、
そしてそれが自分の感覚的な気質とたまたま相性が良かったのだろうなとの発見もあった。


この本を翻訳した昔話研究者の小沢俊夫を
はじめ、昔話研究者がみな口を揃えて言うのが、
「昔話をむやみに変えるな」
「昔話を壊すな」
ということである。
昔話のもつ様々な様式的特徴こそが
昔話を昔話たらしめているものなので、
それを守らないものは昔話とは言えないというのだ。

昔話は決して状況を具体的には語らないし、
登場人物の内面描写もしない。
話の筋はシンプルに、一方向に進む。
そこから逸脱するものは昔話を壊していると。

昔話を体系化して、
昔話とはこういうものであるとすると、
そうでないものは昔話でないとして
排除されることになる。
昔話はかくあるべしということが限定される。

それは大変わかりやすいし、
カテゴライズもしやすいけれど、
やはりそれによって切り捨てられたものも
あるだろうなとは思う。

昔話は読み人知らず。
誰が何のために作り出したのかは不明だ。
特定の誰かが作ったのか、
自然発生的に生まれたのか、
それすらもわからない。

ただ、地域や時代を越え、
同じような特徴をもった昔話が
世界各国で存在するという事実がある。
お話の構造が似通っている、
もしくはほとんど同じというものも多い。

また、
それが文字によって記録されたのではなく、
口伝え、口承によって人々の間に
何代にも渡って語り継がれてきたというのが
昔話の凄みでもある。

昔話の話し手は
当然話し手を専門としているプロではなく、
一般の庶民だ。
祖父母や両親、近隣の大人たちから
幼い頃に語ってもらった話を
自らが大人になってから子どもたちに
語っていく。
だから自分がその話を聞いてから、
だいぶタイムラグがあった後にその話を
語ることになる。

そういう事情もあって、
昔話がシンプルな語り口になる必然は
あったとは思うが、
ここからは僕の勝手な妄想だが、
マックス・リュティが主張したような
昔話の特徴から逸脱して昔話を語る
話者もいただろうということだ。

たしかに昔話を平均して見れば、
マックス・リュティが見出した特徴が
共通して発見されるかもしれないが、
個々の話者や、個々の場によって
多少の、または大きくその特徴から
逸脱した昔話空間もあっただろうと
いうことだ。
もちろん、そんなことを言い出したら
体系化できなくなるので、
基本的、平均的な昔話はこういうものですよと
ある程度縛りを設ける必要があったことは
理解できる。

ただ、その特徴を満たさないものは
昔話にあらずというのは
行きすぎではないだろうかという気がする。

元々原典がない以上、
変わっていくということ自体が
昔話の特性でもあると思う。

昔話の大きな特徴の一つでもある
口承で伝えるという文化は
今やなくなってしまったに等しい。
絵本やアニメなど、表現形態を変えて
ごくわずかのお話が現代にも語り継がれている。
表現形態を変えるというのは、
様式こそがその特徴の大きな要素を担う
昔話にはとっては根本的な激変を
余儀なくされる。

「抽象」から「具体」へと
形を変えざるを得ないということだ。

口承でなくなった時点で、
昔話はかつての昔話ではありようがない。
形だけ口承の昔話の特徴を取り入れてみても、
文章や絵という具体的なものが介在する以上、
違ったものになってしまうのは避けられない。
それでもかつての昔話の特徴をできるだけ守るのか、はたまた口承ではない新たな表現形態の
その様式の中でこそ生きる新たな特性を
模索するのか。

僕がやろうとしているのは後者だ。
昔話の新たな表現形態としての手法や
その中でこそ生きる様式の模索。
それは昔話ではないといえばそうかもしれない。
でも表現形態が変わり、時代も変わり。
形が変わるのは自然なことのように思う。


また、形が変わることで、
本質まで変わってしまうことも
避けられないと思う。
最終的には仏教や神道のように
象徴的な儀礼や形式だけが残るような気がする。


ただ、
その口承昔話の特徴や本質が忘れ去られていいとは思わない。
口承昔話に対しては常に自覚的でありたいし、
新たな表現形態としての昔話を語っていくのと並行して、
口承昔話について知ることを続けていきたい。
たぶんまたそこで新たな発見もあるだろう。

 


最近、昔話の動画を作るペースが落ちていたので、ちょっと作る方のモチベーションが落ちてしまっていたけれど、
マックス・リュティの本を読んで、
昔話の奥深さ・面白さ・特異性を再発見するとともに、
昔話に対しての自分の態度が
今までよりもさらにハッキリしたので、
どんどん作っていきたいなと思っている。