ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

寝返り

今朝、息子のちゃまちゃま(仮名)が
寝返りをしそうな素振りを見せていたので、
妻とちゃまちゃまを布団の上で
転がしてみたりして寝返りの練習みたいな
ことをしていた。

うつ伏せはすっかり慣れた様子だし、
半身になって横を向くのもだいぶ
体が起き上がるようになってきた。

そのときにふと思ったのが、
オレもこんな感じで寝返りとか
していたんだなぁということだった。

自分が寝返りをしていたときの記憶は
もちろんない。
でも、ちゃまちゃまの寝返りを見ていると、
物心がつく前の、
覚えていないはずの自分の記憶を思い出すような、そんな感覚になった。

ちゃまちゃまを通して、
自分の記憶の引き出しには存在しない、
でもかつてたしかにあったその記憶を
イメージとして思い出すことができた。

そしてそれは同時に、
ちゃまちゃまの姿に、
かつて赤ちゃんだった頃の自分を発見し、
自分や妻の姿に、
若かりし頃の両親の姿を発見することでもあった。

自分もこんな感じだったんだなぁというのと、
父や母もこんな感じだったのかなぁという、
僕の知らない自分、
僕の知らない父や母と再会できたようで
なんともほっこりと嬉しく懐かしく、
かつてたしかに存在した時間を感じることが
できた。

父は昨年亡くなり、
母は一人で暮らしている。

あの時間はもう過去のものだ。
赤ちゃんの自分はもういないし、
若かった両親ももういない。

でもその記憶や存在は
自分の中でいつでも思い出したり
再会することができるとしたら、
これほど心強いものはない。

ふとしたときに、
それは神棚に向かって祈るときや
お墓や写真に手を合わせるとき、
写真を見たり、
当時のことを話したり、
なんとなく思ってみたり、
そうやって自分にとって大事な
存在や時間の記憶にいつでも触れられる。

時間によって、
常に現在は過去のものとなり、
失われていく。
肉体だけじゃなく、
そうやって常に今は死んでいく。

それには抗いようがない。

でも意識がある限りは
いつだって思い出して、
いきいきとその時間を感じることは
できる。

それは
過去を正確に思い出すことではなく、
リクリエイションというか、
記憶を再創造することだ。
過去の記憶や思いによって、
その時間をまた新たに創造する感じだろうか。

それによってまた、
過去の記憶や時間との新たな関係を
結ぶことができる。
それは過去ではなく今だ。

父親が亡くなって
もうすぐ一年になるが、
父親は最近、ますます存在感を増し、
なんなら生きていたときよりも
身近に感じられる。


認知症のことを考える。

長期記憶が保持されやすいというのは救いだ。
それが自分の根源的な過去と今をつなぐ一番大事なものだからだ。

今施設で暮らしている
おばあちゃんは僕たちのことを
どこまで覚えているだろうか。
子どもの頃や若いときのことを
どれぐらい覚えているだろう。
そしてそれを今のリアルな実感として
どんなふうに思い出したり再創造することが
できているんだろうか。

ちゃまちゃまに会ったら
どんなふうに思うだろうか。