ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

自分語りをつらつらと

わらしべ長者の絵を描き終え、
スキャンも終わった。
あとは効果音を集めて編集だ。

昔話の紙芝居をもう30本以上
作っているけど、
お話や、お話を通して何かメッセージを
伝えたいというよりは、
作って発信するということ自体に
自分は価値や満足を感じているように思う。

そしてそれを見た人が何らかの反応を
示してくれたり、
何かしらの影響が及んでいたとしたら嬉しい。

音楽をやっているときも、
歌詞は適当で、別に意味とかメッセージを
伝えたいわけではなかった。
そういうものを作ったり、
ライブではっちゃけたりせずにはおれない
自分の爆発しそうなエネルギーを
とにかく外に出したかったし、
それを見て何かパワーを受け取ってもらえる
ことを期待していたような気がする。

もちろん自己顕示欲や成功したいという欲も
強烈にあったし、
認められたい、
認めさせたいという欲求もあった。

それぐらい渇望感というか、
自分はまだ足りていない、
もっともっと上へ行きたいという
切実な焦りのような気持ちもあった。

だからとにかく行動が必要だった。
合理的に計画を練ることは行動を止める。
行動を止めると、やる気が削がれる。
やっていないとやる気がドライブしていかない。
行動を止めることは、即刻飽きにつながる。

ただ考えるだけで継続するようなやる気を
自分は持ち合わせていない。
客観的になったら終わりだ。
バリバリ主観で、
ただ夢中で駆け抜ける以外に
何かに熱を込めて実行する方法を知らない。

わからないからやる。
考えて理解してしまったらそれで終わりだ。
その先はない。

自分はそういう
よくわからない世界に
勝手な希望や期待を抱いて
直感だけを頼りに
無計画に飛び込んでいくのが
好きだった。

もちろん損得のそろばんはきっちり
弾いていたとは思う。
自分のポジションを上げようとする小賢しさ、
今の言葉でいうとブランディングみたいな
ことやポジション取りにもせっせと
いそしんでいたように思う。

無邪気さと打算が妙に交錯しながらも、
エネルギーだけは異常にあって、
視野を狭くすることでのみ発揮できる
一点突破的な勢いで突き進んでいた。

でもこれには難点もあって、
人と何かをやる場合には
その人とバイブスが近いか、
相手があきらめて自分に合わせてくれるか
しないと成立しない。

なんせこちらは
合理性とか意味とか度外視して
ただ自分の思うままに暴れたいだけ
なのだから。
集団とか協調というものとは
本当に相容れなかった。

ただ根は真面目なところもあるので、
自分なりに色々と合わせようと自主規制した結果、
自分のやりたいことがほぼできなくなった。

正確には集団の中での自分を発揮するのを
あきらめ、
人の手の及ばないポジションでのスタンドプレーで自分の欲求を満たすという、
集団である必要性の全くないところにしか、
自分の居場所を作れなくなった。

創作や表現活動を誰かと一緒にやったり、
やり続けるというのは自分には無理だなと
思った。

誰の言葉だったか忘れたが、
「早く行きたければ一人で行け。
 遠くへ行きたければ誰かと行け。」
というのがあるが、
もし遠くへ行ったとしても、
それが自分を押し殺して我慢し続けて行き着いた遠くの場所だとしたら、
果たして自分はそれに納得できるだろうか、
自分自身に対して胸を張れるだろうかと
思ったら、やはりそれはノーだ。

たとえ、近場であったとしても、
しょうもない旅だったとしても、
この旅は自分の旅なのだと実感できる
しょうもないけどけっこう好きな旅路を
自分は行きたい。

エネルギーはある。
ただ以前よりも考えるようになった。
以前よりも後先を考えるようになってしまった。
昔よりも冷静になってしまった。
それが極端な行動を抑制している。


多少は賢くなったのかもしれないが、
つまらなくもなった。
たんにしょうもない大人になった
だけなのか。
自分の中のあるべき枠組みが
世間に擦り寄ったのか。


この悶々とした気恥ずかしい青臭さは
10代の頃と似たようなものだが、
40を前にしてこんなことを悩んでいる救いのなさは10代のときとは比べものにならない。


淡々とやるだけでは
ダメだ。
そんなもので自分は満足しない。


大きく打って出なければ、
大きく打って出たと感じられなければ、
おもしろくない。


やってる感でもいい。
何もやらないよりはマシだ。
どうせ意味はない。


人を驚かせてやろう。


ここからが勝負だ。