ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

昔話の摩訶不思議

昔話には超現実的な要素が
いろいろと出てくる。

桃太郎の大きな桃、
浦島太郎の玉手箱、
一寸法師の打ち出の小槌や、
神様からのお告げなど、
数限りない。

昔話は寓話だ。
この世のたとえ話。

ということは、
それらはこの世界の
何かを象徴しているはずだ。
なんだろうか。

桃太郎の桃が
古代の神話や伝説に由来していて、
桃はこういうことを象徴しているとか、
そういう個別の案件を個別に探るのではなく、
なぜ昔話には
不思議な力を持つ人や物が
登場するのかをざっくり考えてみたい。

昔話に出てくる
そのような不思議パワーの特徴としては、
その力自体はかなり強力で、
揺るぎないということがある。
一寸法師の打ち出の小槌は
いつだれが使っても
きっと同じ効力が確実に発揮されるだろうし、
浦島太郎の玉手箱も同様だろう。
昔話にしばしば出てくる
神のお告げも百発百中、
必ずお告げ通りになる。
このように不思議な力は、
絶対的にそうであるものとして描かれる。

そしてもう一つの特徴は、
その不思議な力自体と、
善悪や正しさは関係がないということだ。
不思議な力はただ強力なだけで、
それ自体にはなんの思想性も倫理観もなく、
ただ存在するだけだ。
それらが問題にされるのは、
もっぱらそれを運用する者に対してだ。

こぶとりじいさんに代表される
いいおじいさんと悪いおじいさんが出てくる
パターンの話では、
こぶを自在に扱う鬼が
いいおじいさんのこぶを除去し、
一方で悪いおじいさんにはこぶをつけ加える
ということが起こる。
鬼という存在が悪者を想起させるかも
しれないが、
この話では、鬼はおそろしい存在ではあるものの、悪としては描かれない。
むしろ、いいおじいさんの真似をして安易に利益を得ようとしたおじいさんの態度こそ、
問題の対象になっているように思う。

鬼の能力は、
ただそういうものとしてあるだけだ。

つまり、
昔話に登場する超現実的な不思議パワーは、
圧倒的な揺るぎない力をもち、
それ自体は意味をもたない。

その力に遭遇した者が
どのようにその力を受け取るのか、
その態度にこそ意味が出てくる。

昔話において、
超現実的な不思議パワーは
人間性(擬人化された動物も含めて)を
あぶり出すための装置として
機能しているのではないか。

そしてそれは単なるファンタジー
フィクションとしてのガジェットではなく、
たとえばこの世の自然のように、
人が癒やされたり、生きるために必要であるという側面もあれば、
自然災害として人間の生命を奪うような猛威を
ふるってくる場合もあるという、
人間にとってはかなり振り幅の広い影響を及ぼすもので、
そして自然それ自体はとくにいいも悪いもなく、
ただ単にそのように存在するだけで、
むしろそれをコントロールしようとする人間の態度にこそ問題があり、
なおかつ実は人間なんかには全くコントロールできないほど強大であるという点で、
共通している。

自然だけではなく、
核などにまで射程を伸ばしても
そのまま当てはまるかもしれない。

昔話に出てくる
超現実的な不思議パワーは
人知を超えた力をもっている。
それは人間にどうにかできるものではないことを
知る者と知らない者がいて、
知る者はその強大な力の恩恵に畏怖の念をもち、
知らない者はそれをコントロールできると妄信し、結果的に破滅に陥いる。
そんなパターンが多い。

単純な教訓に
落とし込むのではなく、
世界とは人知の及ばぬものであり、
よくわからなくて得体が知れないという
この感じをつかむためのものとして
捉えるほうがおもしろい。

そしてそれは、
昔話そのものにも当てはまるように思う。

どの話も得体が知れない。
でもたしかに世界とはそんなところだ
という不思議なリアリティがある。
そしてそれを否定も肯定もせず、
ただ、そういうもんだからと穏やかに
言われているような。
そんな感じが昔話にはある。

しかも昔話は
誰か特定の人間が作ったものではなく、
いつどこでどのように
発生したのかわからない、
そしてそのわからないものを
何代にも何百年にも渡って語り継がれてきた
ものであるというのもまた、
昔話の摩訶不思議なパワーだ。