ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

名前

セブンイレブンのことを「セブ」という略し方をしているのを今日初めて聞いた。
関西では「セブ」と略すのだという。


「セブン」や「セブイレ」は聞いたことが
あるが、関西人である自分でも
「セブ」は聞いたことがなかった。
この中でなら自分は「セブイレ」派だが、
基本的には「セブンイレブン」と言っている。

 


略で思い出したが、
スポーツドリンクのことを
スポドリ」と略して書いている
ネット記事の見出しを見たことがあるが、
さすがにスポーツドリンクは
スポーツドリンクだろうと思った。


ユニバーサルスタジオジャパンぐらい
正式名称が長いものを略すのはわかる。
USJ」や「ユニバ」という略し方があるが、
自分は「USJ」派だ。
略し方になんだかその人のカラーが 
出るような気もする。
「ユニバ」というと、我の強いコテコテの大阪人を想像してしまう。

 


それにしても、
なぜ一つのものに対して
こんなにも違った呼び方があるのか。


そもそも名前とは、
あるものを別のものと
区別するためにあるんじゃないのか。
その名前自体が複数あると、
逆にややこしくないだろうか。


人にしたって
その人固有の名前というものがあるのに、
わざわざ名前とは別にあだ名を
つけたりする。
しかも人によってその人に対する
あだ名や呼び方が違っていたりして、
同じ空間にいる複数の人が、
ある人のことをそれぞれ違う呼び方で
呼んだりする場合もある。


じゃあ人や物の名前って
一体何なんだろうか。


と考えてふと思ったのは、
そういえば、
自分で自分のことを名前で呼ばないなと思った。
童謡のさっちゃんやオードリーの春日は
別である。


名前というのは、
他人が呼ぶためのものであって、
自分が自分を表すためのものでは
ないのかもしれない。
自分は自分なんだから、
わざわざ他人と区別しなくても
自分ということはわかる。


人が他人を見たときに、
別の人と区別し、
特定の人のことを呼んだり指したりするために
名前がある。


だからその区別のために、
自分がそいつのことをどう呼ぼうが
自由である。
なるべくしっくりくる呼び方で呼ぼう、
というわけであだ名や略や色んな呼び方が
生まれるのかもしれない。

 


要は自分がわかればいい。
呼びやすくてしっくりくればいい。
名前や本人の特長から離れすぎるとしっくり
こないし、
呼ばれた方もピンと来ないかもしれないので、
名前から派生したり、その本人の特長が暗示されたような呼び方になるのだろう。

 


自分にとってセブンイレブン
セブンイレブンだ。
セブでもセブンでもセブイレでもない。


ではそういうスタンスで、
「昨日さぁセブ行ったんだけどぉ」と言ってきた人に対して、
セブ島ですか?」と返すのは、
名前という機能の完全なる敗北なのか。


名前に限らず、
共通前提をもたない人間同士は
一体どうやってコミュニケートしていけば
いいのか。


何の普通も共有していない同士だと、
同じ言葉を喋っていても
実質違う言葉を喋っている。


喋っても無駄だとしたら、
とりあえず一緒に飯でも食うしかないのか。

 


「じゃあマクド行く?それともマック?」