ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

キツネ

日本昔話にはよくキツネが登場する。

タヌキと同じく、
化けたり、人をだましたりするようなキャラクターとして描かれることが多い。

今と比べて、
キツネが身近な存在であり、
共通したイメージが持ちやすかったのだろうと思う。


「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という本がある。
内山節という人が書いている。

今までタイトルは知っていたけれど、
読んだことはなかった。
昔話の紙芝居を作るようになってから、
その本に俄然興味が湧いて、
買って読んでみた。

内容は、
キツネが本当に人をだましていたかどうかは
別にして、
人がキツネにだまされたという話が聞かれなくなったのが、大体1965年頃であり、
タイトル通り、その「なぜ」の部分を掘り下げ、
時代の移り変わりや、現代の課題を浮き彫りにしていく、といった感じのわりと真面目な本だ。

経済成長に伴う自然感・死生観の変化や、
西洋的な論理性・合理性が浸透しつくしたらこうなりました、
という耳が痛くて切ない話が書かれているが、
のめり込んで一気読みしてしまった。

自分自身がなんとなく抱える虚しさとか、
亡くなった父親のことを重ねたりもして、
スッと腹に落ちた。
今読んだら、生まれてきた子どものことも重ねて、なおさら考えさせられそうだ。


読んでいて思い出したのは、
たしか養老孟司が言っていた、
「最近の学生の作文に花鳥風月が出てこない」
という言葉だった。

学生たちの生活の中には、
自然との関わりが全くなく、
人間関係しかないのだという。

それは学生に限らず、
都市部や住宅街に暮らす現代人のほとんどが
そうかもしれない。
自然の中でボーっと過ごすなんて、
最後にしたのは一体いつだろう。

 

アドラーは「全ての悩みは対人関係の悩みである」と言い、
坂口恭平は「人は人からどう見られているかということだけを悩み続けている」と言った。

それなのに、人間関係しかなくなってしまったんだったら、そりゃ生きづらいだろうと思う。

 


かつてあった維新派という劇団は、
既存の劇場ではなく、
駅から離れた不便な山奥などにわざわざ野外劇場を造って公演を行なったという。


山道をしばらく歩くと、
屋台の灯りが見えてくる。
野外劇場の周りには屋台が連なり、
お祭りさながらの雰囲気だ。
そしていざ公演が始まるころには、
日常社会の煩わしさや、面倒な人間関係のことなどすっかり忘れて、
いい感じのトランス状態ができあがっている。


維新派の公演を観たことはないが、
きっとその状態で観る舞台は、
理屈を超えた感覚や感動が味わえたんだろうなと思う。

 


最近では、
キツネにだまされることもなくなり、
野犬も見なくなった。
どっすん便所は消え、
コスパが悪く、エビデンスのないものは存在できなくなった。


この調子でいくと、
昔話や紙芝居も不要となるだろう。


効率や合理性を突き詰めた先には、
おそらく人間の不要が待っている。
コスパが悪く、理不尽で、
ノイズだらけだからだ。


でも、さすがにそれには抗いたい。


どうやって?


それは、
意味があろうがなかろうが、
とりあえず自分なりにやれることをやるだけだ。


このブログもそのひとつだ。