ジョニイの無目的室

目的なく、ただつらつらと。

首のない影

昔話といえば、
勧善懲悪、
説教くさい、
子どもだましという
イメージがわりと一般的ではないだろうか。

でも昔話の本をいろいろと読んでみると、
実はそうでもない。
勧善懲悪とか教訓譚みたいな話は、
明治以降に教育目的で学校教科書に掲載されたり、絵本になったりして、
そういう話ばかりが採用されただけで、
昔話は「桃太郎」や「笠地蔵」みたいな
話ばかりではない。

そもそも昔話というもの自体が、
一部の話を除いては、
道徳観念を問題にしたり配慮したもの
ではない。


たとえば、
「首のない影」というお話。

昔あるところに、
一人の男が妾を囲っていて、
毎晩三味線を抱えて通っていました。

ある二十三夜の夜、
妾の元へ向かう道すがら、
灯のついた家を見つけ、
中を覗いてみると、
老夫婦が二十三夜待ちをしていたので、
今夜は女のところへは行かず、
ここで連れ遊びをすることにしました。
明け方にその家から帰っていくと、
田んぼの水面に映る自分の影に
首がない。

男は驚いて老夫婦の元へ戻って
その話をすると、その二人は、
「よくぞ戻ってきましたね。わたしたちはあなたが戻るのを待っていた。もし戻ってこなければ、あなたの命はなかった」
と言って、弓と矢を渡しました。
「これであなたの一番大事なものを射ちなさい。
そうすればあなたの命は助かります」と言われた男は、
自分の一番大事なものを考えた。
馬かな、犬かな、
いや、やっぱり一番妻が大事だ。
男は家に帰り、
長櫃(ながびつ)にもたれて
編み物をする妻めがけて矢を放ちました。
矢は妻の胸を射抜き、後ろの長櫃(ながびつ)まで貫いた。
長櫃の中には、妻の間男が隠れていて、妻とともに死んでしまった。
妻と間男は共謀して、夫がめかけの家から帰ってきたら、ナタで首を切るつもりだったというわけです。
男は間一髪のところで助かりました。


というお話だが、
一般的に知られる昔話とは、
またひと味違った印象の話だ。


水面に映る影に首がなかったり、
謎の老夫婦のお告げや、
大事なものを射つと命が助かる弓矢など、
昔話に出てきそうな超現実的な要素が
盛りだくさんだが、
登場人物の設定がちょっと違う。

主人公には妾がいて、
その妻には間男がいる。
これはよくある昔話ではなかなか
お目にかからない設定だ。

この話を聞いて、
「浮気はよくない」程度の感想しか
もてないとしたら、モッタイナイ。

子どもの場合ならば、
主人公の命が助かったことを素直に
喜ぶかもしれないし、
弓矢というガジェットに興奮する男児
いるかもしれない。
大人の場合なら、
男女の一筋縄ではいかない皮肉と悲哀に
切ない味わいを発見できるかもしれないし、
自分に重ね合わせて複雑な感慨に浸る人だって
いるかもしれない。

その前にまず、
昔話を何か難しく考えて、
意味を見つけ出すために聞く必要はないし、
そもそも昔話は直感的に味わうものだ。
子どもだったら、自分の中になんとなく
そのお話の世界観やイメージが残って、
ことあるごとに反芻してみたりするかも
しれない。
その場合はもはや話の筋すらどうでもいい。

この話を
勧善懲悪とか教訓譚として捉えるならば、
主人公を共謀して殺そうとした
妻と間男をやっつけてめでたしめでたし、
とか、
浮気してはいけません、
共謀して夫を殺そうとしてはいけません、
などというとてもつまらない
結論にたどり着くだろう。

そうなれば教育的にも、
不貞や殺人要素もちゃんと
それはいけませんというメッセージに
繋がっているので、道徳観念的にもOK!
みたいな言い訳や逃げ口上にも
なるかもしれない。
(いや無理だ)

このお話がおもしろいのは、
妾遊びをしている主人公の男が
何が一番大事かと問われ、
一応妻という答えを出す。
(馬か犬かとで迷う場面は笑うところだ)
一方で妻はというと、
夫の妾遊びが許せないのか、
間男に惚れているのか、
ただただ夫が嫌いなのかは不明だが、
間男と夫を殺す算段をしている。
夫は遊び人風情だが、
妻は殺人を企てる程度にはマジだ。
その完全なすれ違い、
わかり合えなさもさることながら、
夫は自分の命を守るために一番大事な妻を射た結果、命は助かるが、
妻に間男がいたことや、
妻が間男と共謀し夫殺害計画を企てていた事実を知ることとなる。
老夫婦の進言通り、一番大事なものを射つことで、自分の命は助かった。
しかし同時に一番大事なものを最も嫌な型で失うハメにもなった。

このどうしようもなさ。
良かったとか悪かったとかどちらとも
言えない割りきれない感じ。
これこそが世界だ。
勧善懲悪なんて、実際にはない。
完全な善も、完全な悪もないからだ。

昔話が伝えているのは、
勧善懲悪でも道徳観念でもない。
世界はそういうもんだという
身も蓋もない事実。

勧善懲悪や道徳では割りきれないもの、
単純に決めることができないけれど、
たしかにあるもの、
それを寓話という嘘話に盛り込んで、
食べづらいものを食べやすく伝えているのでは
ないだろうか。

得体の知れない話を
得体の知れないまま出す。
それこそが昔話の潔さであり、
おもしろさであり、
だからこそ、
自分とは無縁と思われる昔々の作り話が、
動物たちが騙しあったりする嘘話が、
自分とダイレクトに関係ある
この世の本当のこととして
スッと自分の中に入ってくるのかもしれない。

昔話という原野

昔話の本を読んでいていいのは、
何より話が短い。
すぐ読める。

柳田國男の「日本の昔話」には
1ページ未満の話がざらにある。
長くて3〜4ページだ。

なんでこんなに短いかというと、
あらすじしかないからだ。
登場人物の内面の描写とか、
行動の理由や背景とか、
そんなものは書いていない。
ただただ話が進む。

身も蓋もないぐらいに
物事が淡々と進み、過ぎていく。
初めて読んだときは、
それがとても新鮮だった。
気持ちがよかった。

簡潔で、枝葉がない。

だからこそ、
書いていないことはすべて想像しなければ
ならない。
こちらが創造しなければならない。

頭の中で創作が行われる。
そこがいいんだろうなと思う。

しかもその話がなんのために作られたのか、
聞いた者にどう思ってほしくて作ったのか、
全くわからないようなものが多い。
一見、教訓譚に見える話でも、
どこか不気味な、得体の知れない印象を残す。
今でいうところの正しいメッセージ性みたいなものを押しつけてくるようなところがあまりない。

どう思えばいいのか、
わからない。

これがおもしろかった。

この投げっぱなしな感じがいい。
でもその投げっぱなしな感じは、
明らかにこの世界と地続きな、
ともするとこの世界そのものなんじゃないかと
思えるような投げっぱなし感なのだ。

そう思うと、
今作られる物語は、説明過多なのか。
状況説明や人物の背景とか、
とにかくわかりやすく描かれる。
見ていてわからないところがないぐらい、
その場面で起こった出来事が
なぜ起こったのか、ほとんどわかる。
そう作られている。

でも現実はそうじゃない。
人の内面の心の声とか、
行動や行為の動機とか、
一般の生活ではわざわざ説明されないし、
伏線も回収されない。

簡潔であること、
簡潔すぎることで、
昔話は完全な作り話でありながら、
どこか世界の深遠を覗き見てしまったような
そういうものになっているように思う。

この簡潔さは、
それを狙ってのことというよりは、
昔話が書物ではなく、
口伝えで伝わってきたものだから
というのが大きいだろう。

書物なら詳細にディテールまで
書き記すことができる。
でも口伝えだとそうはいかない。

長かったり、細かかったり、
複雑すぎると覚えられないし、
聞いていても内容が入ってこない。
子どもが対象の場合はなおさらだ。

そして子どものときに聞いた話を
数十年経て、大人になってから
子や孫などに伝えるとなると、
そりゃ大まかなあらすじしか覚えていないだろう。
昔話を伝えるのは庶民だ。
語り部を仕事にしているプロではない。
覚えようと思って暗記したわけではなく、
昔おじいちゃんやおばあちゃんにこんな話を
してもらったなぁというのを思い出しながら話すわけだ。

簡潔にならざるを得ない。


忘れないようにノートに書いて残しておく
ということも当時はできなかった。
それは庶民の識字率が低く、
文字の読み書きができる人がほとんど
いなかったからだ。

文字の読み書きができるのは、
貴族とか位の高い人ぐらいで、
義務教育もない昔は、
庶民には文字は縁遠いものだった。
(江戸時代後期は寺子屋ができ、都市部の江戸では識字率が高かったらしいが、昔話がたくさん伝わったのは田舎が多く、そのころでもまだまだ文字の読めない庶民は多かったと思われる)

この口伝えというスタイル、
しかも誰が作ったのかわからないことや、
オリジナルがない、もしくはわからないというのが、
昔話ぎ他の物語を扱う芸能や文化とは
全く違うところだ。

だから他の物語を扱う芸能や文化に
慣れ親しんだ目から見ると、
新鮮なのだ。

ただ、僕は本で書き記されたものを
読んだだけで、
昔の原初的な、
親から子へ、祖父母から孫へ、
といったふうに伝えられていく昔話を
経験したわけではないし、
それを味わうことはもうできない。

本を読んで知る昔話は、
当時の人たちが体験した昔話とは
似て非なるものだ。

昔話はあらすじという型と、
語り手と聞き手のコミュニケーション
という二つの要素が、
その時間、その場所という
瞬間にのみ成立していたものだったんだろうと思う。

今は型だけが残り、
別の物としてかろうじて
残っているものもある。

教育用の絵本として、
auのCMとして、
桃太郎電鉄として、
あらゆる形を借りながら、
たくましく生きながらえている。

昔話は型だ。
型が強いからこそ、
作り替えられたり、
パロディにされながらでも
残っている。

原型からどれだけ逸脱しようとも、
それでも残る。
残ってきた。


この先どこまで残るのかは知らないが、
少なくとも僕の寿命よりは残るだろう。


この型で遊べるだけ遊ぶ。
とてもいいオモチャを手に入れたような
感じだ。


昔話はもう第8シーズンぐらいまで
来ているんだろうと思う(適当)。
原型はだいぶ崩れているんだろうけど、
それでもなお現代まで持ちこたえてきた
型がある。


昔話は史実などではなく思いっきり作り話だが、
そこには世界の普遍的な何かが
あるような気がしてならない。


自分の手に負える代物ではないのかも
しれないが、
その価値にほとんど誰も気づいてはいないので、
注目こそされないが、
咎められることもないだろう。


それをいいことに
この昔話という耕作放棄地のような原野で、
好きにやらせていただく。

 

健忘録

YouTube用の昔話解説動画を作ろうと
叩き台を書いていたのだけど、
なんだかそれっぽく情報をまとめているだけの
つまらないものになりそうだと気づいて
一旦やめた。

こうも気張って、よくある風の
講座っぽい感じに仕立て上げようと
してしまう無意識の社会性というか
なんというか。
そういう規範にはまりたがる自分の無意識って
相当強いんだなぁと思った。

しかし、
自分は専門家でもなんでもないんだから、
本当はもっと無責任に適当にやればいいのだ。

昔話の伝統や文化を守って
人々に継承していきたいなどという
高尚な思いは毛頭なく、
ただやってておもしろいからやっているだけ
という基本のキに立ち返って、
なんでおもしろいのかを探っていくというのを
何の根拠もなくやっていくのが
自分の性には合っている。


とりあえず
昔話のあれやこれやを
思いつくままに、
断片的に書き連ねていって、
その内容を適当に羅列して、
一本の動画にしようと思う。

講座っぽい感じじゃなくて、
もっと安くて軽いしゃべりがいい。

今まで作った紙芝居の登場人物が
ダラダラとしゃべる。
そんなのがいい。

昔話のほんの重箱の隅を、
あるのかないのかわからないような
そのほんの隅をちょこちょこと
撫でる程度が関の山だろうが、
それでもやりたい。


思いつくままに、
適当に、
何の脈略もないただのメモとして、
以後記していくこととする。

毎日書く

ブログはだいたい入浴中に書いている。

紙芝居を作る時間がなかなかとれないので、
それに代わるアウトプットはないかということで行き着いたのがブログだった。


ブログならスマホで書けるし、
入浴中や昼食中にも書ける。
隙間時間にもってこいだ。


ということでブログを毎日書いていたが、
現在、YouTubeに紙芝居以外の、
昔話について解説するような動画を
上げたいと思っていて、
その中身を考えたり、シナリオを作るのを
いつやろうかと思うと、
やはり入浴中ということになる。


というわけで、
しばらくは新たな動画作りに取りかかりたいので、
ブログは二の次ということにしようと思う。


ブログに時間をとられて、
動画作りが進まないというのは困る。


時間があったり、
どうしても書きたいことがあったら、
そのときは書けばいい。

 


ただ毎日書いてきて、
いざそれがストップするとなると
なんだかさびしい。


書くのは楽しいし、
一日の中でブログを書く時間というのが、
自分にとってけっこう大事なものに
なっていたみたいだ。


日記を書くってこういうこと
なのね。

 

名前

セブンイレブンのことを「セブ」という略し方をしているのを今日初めて聞いた。
関西では「セブ」と略すのだという。


「セブン」や「セブイレ」は聞いたことが
あるが、関西人である自分でも
「セブ」は聞いたことがなかった。
この中でなら自分は「セブイレ」派だが、
基本的には「セブンイレブン」と言っている。

 


略で思い出したが、
スポーツドリンクのことを
スポドリ」と略して書いている
ネット記事の見出しを見たことがあるが、
さすがにスポーツドリンクは
スポーツドリンクだろうと思った。


ユニバーサルスタジオジャパンぐらい
正式名称が長いものを略すのはわかる。
USJ」や「ユニバ」という略し方があるが、
自分は「USJ」派だ。
略し方になんだかその人のカラーが 
出るような気もする。
「ユニバ」というと、我の強いコテコテの大阪人を想像してしまう。

 


それにしても、
なぜ一つのものに対して
こんなにも違った呼び方があるのか。


そもそも名前とは、
あるものを別のものと
区別するためにあるんじゃないのか。
その名前自体が複数あると、
逆にややこしくないだろうか。


人にしたって
その人固有の名前というものがあるのに、
わざわざ名前とは別にあだ名を
つけたりする。
しかも人によってその人に対する
あだ名や呼び方が違っていたりして、
同じ空間にいる複数の人が、
ある人のことをそれぞれ違う呼び方で
呼んだりする場合もある。


じゃあ人や物の名前って
一体何なんだろうか。


と考えてふと思ったのは、
そういえば、
自分で自分のことを名前で呼ばないなと思った。
童謡のさっちゃんやオードリーの春日は
別である。


名前というのは、
他人が呼ぶためのものであって、
自分が自分を表すためのものでは
ないのかもしれない。
自分は自分なんだから、
わざわざ他人と区別しなくても
自分ということはわかる。


人が他人を見たときに、
別の人と区別し、
特定の人のことを呼んだり指したりするために
名前がある。


だからその区別のために、
自分がそいつのことをどう呼ぼうが
自由である。
なるべくしっくりくる呼び方で呼ぼう、
というわけであだ名や略や色んな呼び方が
生まれるのかもしれない。

 


要は自分がわかればいい。
呼びやすくてしっくりくればいい。
名前や本人の特長から離れすぎるとしっくり
こないし、
呼ばれた方もピンと来ないかもしれないので、
名前から派生したり、その本人の特長が暗示されたような呼び方になるのだろう。

 


自分にとってセブンイレブン
セブンイレブンだ。
セブでもセブンでもセブイレでもない。


ではそういうスタンスで、
「昨日さぁセブ行ったんだけどぉ」と言ってきた人に対して、
セブ島ですか?」と返すのは、
名前という機能の完全なる敗北なのか。


名前に限らず、
共通前提をもたない人間同士は
一体どうやってコミュニケートしていけば
いいのか。


何の普通も共有していない同士だと、
同じ言葉を喋っていても
実質違う言葉を喋っている。


喋っても無駄だとしたら、
とりあえず一緒に飯でも食うしかないのか。

 


「じゃあマクド行く?それともマック?」

別口の動画

昨日完成した「三年寝太郎」の動画を
妻に見せると、
「寝太郎悪いなぁ」というような感想だったので、
自分が寝太郎に興味を持つきっかけになった小沢俊夫の解説の話や、
子どもは親が思わぬ形で育っていくというような話をすると、
「そこまで聞いてようやくおもしろいと思えた」
ということだった。

そして、 
昔話の動画をただアップしていても
観ている方が飽きてしまうし、
そういう背景部分も含めて発信していったほうがいいんじゃないかという意見だった。

 

それは自分の中でも迷うところが
あった。


元々、数字や大きな成果を求めて
やっていることではないにせよ、
人に見てもらってナンボというのは
やはりある。
そして、
観てもらった以上は楽しんでほしい。


ただ、
昔話のテーマやメッセージをわざわざ言葉にして
説明するというのは野暮だとも思う。
観てもらい、観た人が感じたことがすべてで、
こちらが正解を握っているというスタンスも嫌だ。


そういう堂々巡りがずっと自分の中で
あったのだけど、
入口はやはり広げておきたいという
気持ちの方が強かった。

 


というわけで、
紙芝居のお話の動画以外に、
昔話の見方に関する動画も
作ろうかなと思っている。


昔話の研究本の内容をそのまま
コピペして語るというようなことは
つまらないし興味がもてないので、
もっといいかげんで、
それ自体が見世物としておもしろく成立するようなものを作りたい。


そして結果的に昔話や紙芝居に
興味をもってもらったり、
より楽しめるようになってもらえたら
万々歳だ。

 


内容や表現形式含めて、
ゼロから考える。
こういう作業はおもしろい。

寝太郎完成

三年寝太郎の紙芝居動画が
完成し、YouTubeにアップした。

https://youtu.be/JcN3-s49H18
動画をアップするのは
1ヶ月ぶりだ。


子どもが産まれて、
一緒に暮らすようになってから
初めて完成した動画だ。
隙間時間でちょっとずつ作り、
ようやく出来上がった。


今までとはうれしさが違う。
動画を1本作れたことがこんなにうれしいなんて。
たとえちょっとずつでも、
創作できるよろこびというのを実感している。

 


三年寝太郎は、
小沢俊夫の解説を聞いて興味をもち、
動画を作ろうと思った。


寝太郎がどんな話かというと、
寝てばかりいる怠け者の息子が
隣の金持ちをだまして娘と結婚し、
金持ちになるという話だ。


怠け者が人を騙してうまいことやりましたというのが表面上の筋立てだが、
小沢俊夫は、
寝ている子どももいつかは起きて知恵を働かすのだ、という視点を与えてくれた。
祖父や祖母の視点で見ると、
昔は寝てばかりいた子どもも、
今では立派に親になり、子どもを教育していたりする。
だからグータラ寝ていてもいつかは起きて、
知恵を使ってたくましくやっていくものだ。
というメッセージが込められているのではないかという。


自分はさらにそこに、
起きた子どもがどんなふうに知恵を使って生きていくのかは、
親が思っているのとは全く違った形でなされる。
という読み方もできるなぁと思った。


三年寝太郎は悪知恵を働かせて結婚したが、
ここまで大げさな嘘ではないにせよ、
気になる異性に近づいて、
相手が好みそうな人間を装って恋愛に持ちこみ結婚するという嘘ぐらい誰でもやっている。
自分もそうだ。


子どもは親が思わぬ形で成長して
自立していく。
そういう暗喩なんじゃないのかと思って
この話を見ると、
よりいっそうおもしろく思えた。

 


息子のちゃまちゃま(仮名)も、
僕や妻が全く思わぬ形で
大きくなっていくんだろうな。